昭和49年07月27日 朝の御理解



 御理解 第22節
 「天地金乃神と言えば、天地一目に見ておるぞ。神は平等におかげを授けるが受けものが悪ければおかげが漏るぞ。神の徳を十分に受けようと思えばままよという心を出さねばおかげはうけられぬ。ままよとは死んでもままよの事ぞ。」

 神様が下さっておるおかげと言う物は、言わば降るお湿りの様な物。お湿りがずっとあっておる様な。ですから万辺無く誰にでもおかげはやってある。けれども受け物が悪いとおかげが漏るぞと仰っておられる。だから信心をさせて頂くと言う事は、その受け物を造るという子とにあるのです。只その受け物を造るというてもなら、神様が下さっている物を十分に頂こうと思えば、だからお徳を受けなければならんと思います。
 だから信心とはお徳を受ける為に、信心をするのだというても良いのです。ならお徳を受ける言う事は、どう言う事かというと、信心をさせて頂いておると、様々な事が起きて来る。様々な事がある。そういうお徳を受ける、言わばチャンスと言った様な物が、何時もざらにあるものではない。それこそ腹を決めなければね。とても出来ないね。ままよという心を出さねばと仰っておる。
 場合にはそれが生命に係る様な事があるかも知れん。場合には、自分所の財産をもう打ち振ってしまわんならんと、言った様な事に直面する事があるかもしれない。そういう時にあわててはならない。そういう時にままよという心で神様にお縋りをする。そこにです。十分のおかげ神様が下さろうとしておるおかげを十分に受け抱留める事が出来ると言う事です。もう一、二年前でしたでしょうかね、日田の綾部さんの所で、沢山なお金を貸してあった方が倒産された。
 私はあの時の事を今でも思うて見ると、その倒産した方もここにお参りして来ょったんです。それでその、私が、まあ、その頃そのー本当にそれが何億という金ですからね。もう大きな仕事をなさっておられる。もう山なんかでもそれこそその当時五億位の山を持っておられたんでしょうかね。一年余り参っておられたその方とも係りが綾部さんにはあったんです。それで、沢山の言わばお金を貸してあったんですが、それが倒れた。だからもう、日田の丸亀、言わば綾部さんの丸亀はもう潰れる。
 もう潰れたという噂が市中に飛ぶ様な事だった。そうゆう時でもね、もう昼ん中に何回も電話が掛かって来てこういう状態になっとるがとなら、そのままほっときなさい、そのまましときなさい。はあ行く事は要らん、どうする事も要らんと言う様な事ばっかりでした。とうとうその倒産された。はあ沢山なその方に言うなら引っ掛った人が沢山出来た訳です。所がどうですか、綾部さんだけは一銭も引っ掛らなかったですから。
 それはその辺自分の事をいうと、それやそれは大変不思議な不思議な働きがあってですね、かえっておかげを頂くと言う事になったんです。もうここで一つ間違うたら、日田の丸亀はしまえたと、言うならば市中に批判するぐらい、又批判でなく実際そういう感じなんです。綾部さん自身ならあちらの、うんなら主人としでですね、本当にそう言うところに立たれたですけど言うならば、神様まかせというか、いわゆるままよという心で神様に縋られた訳です。
 その倒産されたという方もですだから私は「00さん一時ばかり合楽に逃げて来ときなさい、一時ばかりご本部になと行っときなさい。甘木の池田さん当たりが、もどうにもこうにも出来ん、もうそれこそ甘木の親先生に自決をしようか、満州でも逃げて飛びましょうかというて、お伺いをされる様な事がやっぱあったと。あのいうなら大平田と言われる様な大きなおかげを頂かれる前にゃそう言う所があった。けれどもいうなら、親先生まかせで死ぬ事も無かった満州に逃げる事も要らなかった。
 そしてああいうおかげを頂かれておる。もうその時分はご本部の方へ、今図書館が出来ておる、確か時分だったでしょうから、もうあちらへずっと一気にいっちゃった。で私がその方へそれをいうたんです。とうとう終えてしまいました。それから半年後ですね、その方がもっておられる山がね、とにかく十倍位になりましたよ。もうその山が一番値段の安なっとる時でしたから、いうならばまあその時分大変なですけどたった五億の借金がです、もうその山を全部取られてからでもです、足らなかったです。
 私がいうとる通りにもう半年間辛抱しときゃですね、それこそ沢山お金が余るとでした。けどこんな所えねやっぱどん腹がいるんです。そういう心配、心配だけれども、心配なら心配な程神様へもう打ち込んでしまう。所謂ままよという。ならそれと同じ係りがあった綾部さんそこに、沢山な引っ掛っておる方達ゃ皆んな結局引っ掛った。只綾部さんだけがいっちょん引っ掛らんだけじゃなくって、返っておかげを頂かれた。神の徳を十分に受け様と思えばです、それがいるんです。
 それから小さい事からたいがいな物がですね、例えば今私が幾つもそういうと御取次をさせてもらいよりますけれども、高利の金がどんどん付きよる、だから今払うとった方がいい、良かろうと思う訳です。私も思うです。人間心では、けれども、神様はほっとけほっとけと仰る、それゃ気が気じゃないです。そのご本人としては、ね。さあもうどうかといやあ、もう注射さあお医者さん。
 と言う様な事ではですね、私は決して医者に掛かるな注射を打つなと言う訳ではないですよ、けれどそういう時にこそ、日頃の信心に物を言わせてですね、神様にお縋りしてままよと腹を作る所からです、それこそ澄みやかなおかげにも成って来るし、徳を受ける事が出来るんです。昨日私福岡の高橋さんとお話しした事でしたけど、「高橋さんあんたんとこはうちの合楽教会と同じ様な歩みを続けておるですよ」と言う訳です。私んとこの教会も沢山借金を持っておる。あなたも借金を沢山持っておられる。
 そりゃそうでしょちょっと二年余りの間に店が十にもなったんですから、お寿司屋んね、いうなら従業員が百名からある。九州のあっちこっちに支店が沢山出来た。だから開いたばっかりですから皆が儲かるちゅう事は決してない。赤字んとこもあたりゃ黒字んとこもある。しかもそういう沢山のお金があって始めたのじゃない。やっぱり銀行から借ったり、色々あっちこっちから金策されてから一つの店が出来て行く度んびに、借金をして行かれた。けど私はここに借金があるけどもひとっつも心配はしない。
 あなたは心配、それこそ髪の毛が真っ白になるくらい心配しょる。そこがちがう。私は今日ね、だから最近御神前で大黒様を沢山頂くんです。例えば合楽の信奉者にですね、いうならもう貧乏があってはならない。金に不自由をする人があってはならないね、何時も最近申しております様にね貧乏のない世界、病気のない世界、争いのない世界、この三つを現して行く是からの合楽は。いうなら皆んな信者の一人ひとりがね、その為例えば貧乏する事どんがある事じゃない、おかげを頂く為ににはね。
 それこそしっかり大黒様を拝まにゃいかばいね。これは何十年二十年も前のことです。小倉桂先生の事はお腹かが大きいというのは、丁度侠客なんかの人達が命を掛けて、まあそうどん腹をたたいてね、言う様な意味でのおなかの大きさであると言うふうに頂いた。桂先生の事を。当時日本一と言われた甘木の親先生の事を、神様はお腹が大きい。けれども是は少し見苦しい。それは丁度妊産婦が赤ちゃんを抱えて居る様に見苦しい。けど、だからそれこそ日本一の弟子造りと言われる位のおかげを頂かれた。
 次から次に皆された、と言う様な何時もお腹が大きいとい言われる位いに沢山のお弟子さんが出来た。久留米初代の石橋先生の事は、昔玉錦という横綱がおりました。それこそ玉の様に美しいお相撲さんでしたね。もうそのお腹が大きいというと、それこそ金光様をして久留米の石橋さんこそ、真の人でしょうと言われる位なお方でしたから、人間が立派であった。もう玉の様な心の持ち主であった。
 そう言う様な意味でお腹が大きいととこう言われた。そして私の事を神様は丁度大黒様のお腹が大きい様な物だと頂いた。その時分にゃ、私はもうそれこそ貧乏の一番の時分でしたけれども。だから大黒天の徳を受けよと言う事、そうお金には不自由はしないぞと、だから大黒様のお知らせを頂くと皆が親先生とこう言われる訳です。ほら佐多さんと辺りへ行ってみなされ、お神様と霊神様の間にちゃんと立派な台を作ってから大黒様ばもう一生懸命拝みで御座るです。
 だから高橋さん、あた方も大黒様を拝まにゃいかんばいと私は。しっかりと。今朝からここへ大黒様をおいてある。ここえ恐らく高橋さんじゃろうと思う。いうならば大黒様に御神意を入れてもらいたい所じゃ楼と思うんです。あなたのでしょう、なんですかこれは、誰かその話を聞いた人が持って来たとですよ最近大黒様を持っておる人は大黒様を持って来なさい。もう大黒様を拝みさえすりゃ絶対ね。もう金に不自由する事だけはなかばい。私しゃ高橋さんかと思うとったが文雄さんかなそんなら。
 是はもう笑いごとじゃないです。大黒様を拝むちゅう事はね親先生を拝むちゅう事じゃから素晴らしいんです。だから私しゃこの大黒様がここに持って来ちょったからほどいて見たら、そこそこ御神意を入れさせて頂いた。だからもう粗末にゃ出来ん。下んどににゃ置かれんね、それそこあの神様の前でやっぱり拝まにゃいかん。そんな事を私は思わせて頂きよったらですね、こういう事を頂いた。ここでは御神戒の戒と言う字と誠と言う字とこんなによく似とるです。似とっでしょうが。
 一番始め是は誠と言う字だなあと思った。戒の御心眼を頂いた時には、誠と言う字は言うた事が成ると言う事です。私共が大黒様を拝みゃ絶対お金に不自由する事がないと言う事をです。私が言う事は成就するんだと言う事です。成るんだと言う事です。言う事が成る。是が誠です。そしたら次にそれが誠と言う字が御神戒の戒と言う字になる所を頂いた。よく似ちょるぱってんか意味がぜんぜん違うです。
 御神戒と言う事はどう言う事かというと、今日の御理解じゃないけれどもですね、どんな厳しい事であっても、親先生が右と仰ったら右、もうそりゃ心配で心配で堪らんばってん右と仰ったらハイという信心なんです。いましめるね。そういう時に例えばさっきの話しじゃないけれども、ふつうこのままほうからけとくなら利がどんどん重んで行く。普通こんな事をしょけりゃ家うちは倒れる。と言う様な心配な時でも親先生がほっとけと仰るからほっとくだけの度胸がいると言う事なんです。
 そげん時にゃもう直ぐさああっちから行ってからでもちょっと高い利子のつは払うとかにゃん。人間でもうちゃんと自分で決めてしまう。だからそれだけのおかげです。そういう時にままよという心を出すからこん十分のおかげが受けられる、そういう時にお徳を受けて行くんだと言う事です。神様がそれこそ、降る様に下さっておるおかげを頂き止めるというのは、もうお徳という受もので受けるより外にない。
 だからまあ私が、大黒様を持って来なさる。私が御祈念をしてから御神意を入れる、そあもう是から拝みさえすりゃよかというだけでなくて、そういう時に何時の場合でも親先生任せになる。損になる事であろうが徳になる事であろうが、それが命に係る様な事であってもです。昨日は私の夢が朝から出血をして大変心配をしておった。家内が早く親先生いうちから電話かけろというから、かくる事は要らん。
 神様にお願いさせて頂いたらお取祓いじゃからね、お礼ば申す上げんならんと頂いたからすぐ、嫁が寝とる所に行ってからあのね、神様からお取祓いを頂いておるとじゃから、お礼を申し上げなければいかんばい。そういう時にさあ医者じゃ注射じゃ薬だと言う様な事では、お徳は受けられんです。親先生からああいうて頂くからと腹を据えておかげを頂く時にですね、言うならばおかげを頂く。
 言うならお徳を受ける。だから始めの間は、高橋さんに言う多様に、それこそ同じ私も借金、私と言うか合楽教会も沢山借金を持っておるけれども、私は不安もなかりゃな心配もない。高橋さんとこにもやっぱり沢山な借金がある。合楽が大きく成る様にどんどん大きくなりよるけど借金の方も大きくなって行きよる、けれども心配いらん。そこでね今心配するのは当たり前、只親先生まかせで是だけの借金をおわせて頂いたのであるからという安心が出来た時にゃ、高橋さんはもう徳を受けられた時なんです。
 まだ徳を受けてないからこそ心配なんですね。身に徳を受ければ心配はないとおっしゃる。だから今こそなら高橋さんは、身に徳を受けておられよる時。と言う事になる。只普通お取次を頂いて、お願いをしておかげを頂くね、まあ平凡なそういう信心からですならお互いがね、神様がお徳を下さろうとする働きがあるです。そういう時にですね、是しこなら信心をするけれども、そげん時私に何にも言わんで、自分でいうならば利がどんどん重んで行きよるから。
 こりゃもう安かとこん利を借りてから、払わなんならんちゅうてから、自分でするです。それが、日頃どげ良か信心をしよったっちゃ、それじゃ徳は受けられん。まさかどう成るだろうかと言う様な時にです。親先生が右と仰るなら右、左と仰るなら左と、どん腹が決められる様なおかげを頂いたらね、言うなら愈々、大黒天の徳を受ける事が出来る、必要な物でも金でも必要なものが必要なだけ、必要なお金なら必要な金がこやって、打ち振りさえ出て来る様なおかげが頂かれる。
 それがお徳ちゅうもの。これはねー皆さん私しゃね、思うた事を言よるちゃないです。合楽の全部の人が、私が言う事を聞くなら、絶対貧乏のない世界に、住む事が出来るです。絶対病気は根(こん)から切れる様な、おかげは受けられるんですね。そういう意味です。愈々争いのない貧乏のない病気のない、おかげを受けられた時こそ私は、合楽を皆さんの家庭に、現した事になるのです。
 合楽を現すと是は日頃信心させて頂いておればですね。本当にままよという心を出さなければならない機会が何時もあるものではない、ままよという心を出してから神様にお縋りをする。ままよとは死んでもままよの事ぞとこういわれる。死んでも良いと言う程しのままよという心、そういう時に神の徳を十分に受け、神様が下さろうとしておるおかげを十分に頂き現す事が出来るのです。
 だから本当に大体ご信心をさせて頂いておる方達はです、親先生の言われる事をどれだけ信ずるかと言う事にあるのです。だからそれを信じられるおかげを頂く為には、所謂私が言うた事が絶対に成就するんだと誠ですね。だからそう言うおかげを頂く為には、親先生が言われる事を何時も厳しく御神戒の戒の字です。是を心に守りに掛けとかにゃいけん。はあ親先生が、そげな事はするなと言わっしゃったからもうせんと、例えば言う様な物が心になからにゃ行けん、でなかったらその言うならばバランスが崩れる。
 それでも矢張り生命に係ると言った様な、これで家の財産を打ち振ぶってしまうじゃろうかと言った様な時です、やっぱり心配にならんというのは嘘です。けれども心配はあるけども、心配になるからこそ一生懸命の信心が出来よる。そしてその暁にああ成程親先生任せになっときゃこういうおかげが受けられる、さっきの綾部さんのお話しじゃないけれども、そういうおかげになって来るんです。
 そういう時に力を受ける。徳を受けるのです。大黒天というそれを例えば、大きな黒の天と書いて大黒天と読む、又は大国主の命の事を、大黒様と言うぐらいですから、大きな国の主の尊とこう言う事にもなる。大黒と言うことはね、大黒のおかげを頂く為にゃ大黒(おおぐろ)です。(おおぐろ)と言う事は、苦行と言う事、修行と言う事ね、修行の所が私は戒と言う字ならね、黒であるならばです、大きな国と言う事が、私は誠だと言う事だとね、どうでも一つ皆さん一つ大黒様(笑い)話をしたね。
 だから私が言よるとじゃない大黒様が言い御座ると思うてね、おかげを頂かれたらね必ず私の言うた事は成る。成就するんだとおかげになるばいと私が言うても先生はああ言うちゃるばってんかほんな事おかげになるじゃろかと思うからおかげが半分になったりね、受けられなかったりするのです。親先生が言うて頂くのだからとねそこの合楽食堂の中村さんじゃないけれども、確かに誰が見ても又自分を感ずる事はパセド-シ病というんですかあの喉が腫れて、そして目が飛び出て来るという大変な病気なんです。
 今の医学では手術しても手術してもやっぱり、本当の手術が出来ないと言う位難しい病気だから、あんたのもそれだからと、そう声が出なくなったり腫れたり、色々症状がある訳なんです。それでから私は声が出らんとこう言われるから、出らん方がかえって良かがち私がいう。いらん事も言わんでいいそれが良いがち。それで安心のおかげを頂いた。息子達が心配していや親先生が出らな出らん方が、よかち言いなはったからこう頂いておる。勿論医者にも掛からなければ薬も飲まん。
 私はそういうと言うてならやっぱ、様々な症状があるから不安にならないはずはないけれども、不安になる時にゃ一生けんめい神様に向うておかげを頂いた暁にです、中村さんが徳を受ける時です力を受ける時なんです。私しゃなら中村さんが医者に掛かりますからという時にゃそれならおくり合わせお願いしとこうと言うに違いない。けれどもそういう力を受けたり徳を受けたりする様なチャンスと言う物は滅多にあるもんじゃないから、そう言う事をそれこそ成り行きとしてそれを大事々に頂くと言う事なんです。
 神様はそれこそ一応に大坪総一郎であろうが、高芝英夫であろうが、おかげは一応に下さってあると言う事。けれども、受けものが粗つであったり細かったりするから、私と同じおかげになって来ないだけの事。そういうおかげは、何時受けたかと、結局大黒様の時いわゆる大黒(おおぐろ)の時、大修行をさせて頂いている時分にとこうに徳を受けておる。それも只大黒だけじゃない、もうそれこそ、一時が万時に神様の仰せ通りに仕ったと言う事なのだ。私がおかげを受けたというのは。人が笑う場合もある。
 みすみすそげんすりゃ損になる事もある。けれども神様任せでおかげを頂いておるをうちに、おおぐろが所謂大黒と言う事にもなって来た。大きな国と言う事にもなって来た。そして神様が私の言う事ならば、なにもかも行じさせて下さると言う様な約束までして下さった。お前は物金に絶対不自由せんぞと言う様なおかげを下さった。だから皆さんも矢張りそれによらなければならない、そういうおかげにあやからして貰わないけん。そこでしっかり大黒様を拝みなさいと言う事なるのですよね。
   どうぞ。